「こだわり」か、「とらわれ」か
似ているけれど、大きく異なる
「こだわり」と「とらわれ」。
結婚して10年がすぎましたが
結婚当初は経済的な余裕がなく、出来るだけ安く買い物が大切でした。
野菜、肉、魚、とシンプルに素材だけを買い物すること。
お惣菜や加工品を買うよりもリーズナブルだったからです。
けれど、いつからか、「贅沢は敵」といった感覚が
日常を支配するようになっていました。
思い切ってお惣菜のサラダを買うといけないことをしている気持ちになったり
子どもと夜に外食をすると、身の丈にあっていない生活をしている罪悪感さえ
感じたり。
こうなると、日常を丁寧に生活する中でやりくりをしていた当初とは異なる
「贅沢は敵」という想念にとらわれた、
表現を変えれば「我慢することに執着」した生き方になり
服も買えず、靴も履けなくなるまで買えず、化粧品さえあるものだけを使い
心がいつか荒み、自分を哀れに感じるようにさえなっていました。
何事も始まりは「こだわり」かもしれない。
そして、そのこだわりが支配するようになり、とらわれ
執着となっていく。
ずっと前、アメリカのレストランでアルバイトをしていた頃
いつも訪れるカップルが、やたらと食材の新鮮さを質問してきていました。
どんなこだわりを持とうが、それは二人の自由。
でも、二人の眉間にはいつも皺が寄り、「食」に支配された姿に
穏やかさや、美しさは感じられませんでした。
けれど、その一定のルールやこだわりから外れることが許されなくなり
そのルールから離れることに嫌悪感を抱き、苛立ちを感じる、
絶望感に苛まれるようであれば、それはもはや「とらわれ」であり
わかりやすく言えば、執着と言えます。
執着はもはや、こだわりのような軸ではなく、自分自身を見失っている状態。
本当に大切なものなのかどうかさえ、判断できない状態なのです。
とらわれ、執着はいずれ不調を生み出します。
人に対して、生き方に対して、風習や習慣、、、
もう手放してもいいエネルギーはないか。
整理し、手放すのもセラピーの仕事です。
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